遠祖は筑後黒木氏の一族であり、後に長坂城の城主(星子中務丞廉正)となります。
天正7年7月に肥後国の戦国大名である龍造寺隆信の乱に遭い落城し、
その後、廉正の息子が仏門に帰依し法名を願立と改めます。
その後、その子供、明玄によって天正3年(1575年)光顕寺が創設されました。
15代都西は、本願寺派最高学階勧学となり、後、自坊に寮舎を設け学徒の受講に奮励し200余名の弟子を世に送り出しました。
当時の蔵書は西南戦争で焼失しております。
西南戦争では、光顕寺は薩摩飫肥隊の本営・包帯所として使われました。